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スクラップブック! by 愛書家日誌

F・スコット・フィッツジェラルドについてあなたがたぶん知らない10のこと

作家

F・スコット・フィッツジェラルドは1896年9月24日、アメリカのミネソタ州に生まれました。「失われた世代」を代表する作家の一人で、代表作「グレート・ギャツビー」は20世紀アメリカ文学最高の作品の一つと言われています。同作を翻訳した村上春樹は彼の大ファンとして知られ、作品中でもF・スコット・フィッツジェラルドをしばしば取り上げました。今回は彼に関するトリビアをご紹介します。


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F・スコット・フィッツジェラルドに関する3つのキーワード

ヒーローを見せてごらん。私が悲劇を書いてあげよう。
ー F・スコット・フィッツジェラルド

Show me a hero and I'll write you a tragedy.
ー F. Scott Fitzgerald


スコットの人生は彼が書き残したこの言葉を体現したようなものでした。陸軍を除隊後、1920年に初の長編「楽園のこちら側」を発表するとすぐに脚光を浴び、1922年に「美しく呪われし者」、1925年には「グレート・ギャツビー」を出版し、瞬く間に流行作家となります。1920年代のアメリカは「ジャズエイジ」と呼ばれ、第一次世界大戦後の好景気に沸いていました。これまでの保守的な女性像とは違い、ショートヘアで奔放な社交生活を楽しむ新しい女性「フラッパー」として知られる妻ゼルダとスコットは毎晩パーティに繰り出し原稿料を使い果たして享楽的な生活を送りました。

1929年に世界恐慌が起こると人々の生活は一変し、彼の作品も過去のものとなって行きます。スコットはゼルダの精神病院への入院、彼自身のアルコール中毒、膨れ上がった借金により「転落」していきます。生活費を稼ぐため、ハリウッドで脚本家として働きますがアルコール依存は治らず、1940年12月21日、グレアムのアパートで心臓発作を起こし亡くなりました。44才の若さでした。

F・スコット・フィッツジェラルドについてもしかしたら知らないかもしれない10のこと

1.アメリカ国歌とF・スコット・フィッツジェラルドの関係

F・スコット・フィッツジェラルドの名前は父方の遠縁であるフランシス・スコット・キーからとられています。キーは弁護士兼作家で1912年にアメリカ国歌(The Star-Spangled Banner)を作詞し銅像にまでなった人物です。スコットはそのことを大変自慢に思っていました。1934年に酔っ払って友人とキーの像の前を通りかかったスコットは「彼(キー)に酔った僕を見せないで!」と叫び、物陰に隠れたそうです。


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2.F・スコット・フィッツジェラルドはスペルが苦手

早熟な文才で知られるスコットですが、優秀な生徒ではありませんでした。12歳の時、勉強に集中できないとして教室から追い出されています。高校もぎりぎりの成績で卒業し、プリンストン大学でも授業をさぼりがちで、陸軍入隊のために休学する前には単位が大幅に不足していました。またスコットは単語のスペルがとても苦手でした。「楽園のこちら側」の草稿を読んだ友人で文芸評論家のエドマンド・ウィルソンはあまりの間違いの多さに、これまで出版された本の中で一番読みにくい本の一つだったと述べています。彼は失読症だったのではないかと言われています。

3.ゼルダへのプロポーズの回数は2回

○フラッパー
スコットは陸軍に在籍中、アラバマ州モンゴメリーのキャンプ・シェルダンに赴任し、ゼルダ・セイヤーと出会います。彼によるとゼルダは「アラバマ・ジョージアの2州に並ぶ者無き美女」でスコットはすぐに彼女に夢中になりました。一回目のプロポーズで「私は有名でない男は嫌い。有名になってから求婚してちょうだい。」と断られたスコットは一念発起し、「楽園のこちら側」を完成させます。原稿の校正が終わると出版社に手紙を出し、発売を急がせました。「この本の成功には色んなものがかかっている。女だってそうだ。」モンゴメリーに戻ったスコットは再度ゼルダに求婚し、ゼルダは出版されたなら結婚すると約束しました。


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4.ヘミングウェイのゼルダ評

○ジャズエイジ
アーネスト・ヘミングウェイは1925年にパリで出会って以来、スコットの親しい友人となりました。マッチョなヘミングウェイと都会的で繊細なスコットは奇妙な取り合わせでしたが、二人は大変気があったようです。ヘミングウェイは彼の妻ゼルダに批判的でした。ヘミングウェイはゼルダをほとんど気が触れていると思っており、彼女はスコットの執筆を邪魔するために酒を飲んでいると言っていました。ヘミングウェイが自分の書くものにスコットを何度か登場させたことから彼らの仲は険悪になり、1937には喧嘩別れしています。スコットは言いました。「僕は失敗の権威だが、アーネストは成功の権威だ。もう同じテーブルにつくことはできないだろう。」


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5.F・スコット・フィッツジェラルドは記録魔だった

1919年から1937年までの間、スコットはレザーの表紙の大きなノートに生活と仕事の詳細な記録をつけていました。多くの部分は発表した作品とその収入に割かれていましたが、「私の人生の概要」というセクションには、”生まれて初めて話した言葉はup”、”ゼルダと恋に落ちた日は1918年9月7日”など、生まれてからの活動が月ごとに記録されていました。

6.F・スコット・フィッツジェラルドは家を所有したことがなかった

○ジャズエイジ

最初は君が酒を飲む。それから酒が酒を飲む。最後に酒が君を飲む。
ー F・スコット・フィッツジェラルド

First you tke a drink, then the drink takes a drink, then the drink takes you.
ー F. Scott Fitzgerald


作家として成功したスコットでしたが、彼は家を所有したことがありませんでした。人生のほとんどを賃貸の一軒家やアパートメント、お金がある時には高級ホテルで過ごしました。1920年から1940年までの間、彼はニューヨーク、コネチカット、ミネソタ、ロングアイランド、パリ、フレンチ・リビエラ、ローマ、ロサンジェルス、デラウェア、スイス、バルチモア、ノースカロライナで暮らしました。引越しの理由は主にパーティに明け暮れる生活をたてなおそうという試みからでしたが、それは最後までかないませんでした。

7.代表作グレート・ギャツビーはそれほどヒットしなかった

T.S.エリオットなどから好意的な書評が出たにもかかわらず、1925年に出版された「グレート・ギャツビー」はスコットの生きている間には2万冊程度しか売れず、大きなヒット作にはなりませんでした。作品の転機となったのは第二次世界大戦でした。戦地の兵隊に本を送る運動が始まり、グレート・ギャツビーは「Armed Services Edition」と呼ばれた選書の1冊になりました。約15万部が配布され、多くの兵士たちが古き良き時代の故郷を思いながらこの本を読みました。今では毎年約50万部が売れています。


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8.F・スコット・フィッツジェラルドはハリウッドが嫌いだった

○転落
スコットは1937年代にMGMに雇われ、ハリウッドに移住しました。彼はこの地が大嫌いで、ハリウッドは人の言葉の感覚のゴミ捨て場だと言っていました。2年ほどの期間に「風と共に去りぬ」や「響け凱歌」のシナリオチェックをしましたが映画には名前がクレジットされませんでした。またグレタ・ガルボのために書いたシナリオは採用されませんでした。1938年の「三人の仲間(Three Comrades)」に唯一クレジットがありますが、本人は出来に満足していなかったようです。

9.F・スコット・フィッツジェラルドの最後の作品は完成しなかった

○転落

一つの敗北を決定的な敗北と勘違いしてはならない。
ー F・スコット・フィッツジェラルド

Never confuse a single defeat with a final defeat.
ー F. Scott Fitzgerald


1940年にスコットはハリウッドでの経験を元に最後と作品となる「ラスト・タイクーン」を書き始めました。まだ借金もたくさん残っており、アルコール中毒でしたが彼はこの作品の成功を信じていました。11月にゼルダに宛てた手紙には「これまでとはまったく違った作品になりそうだ」と書いています。そして第6章の第1エピソードを書いた翌日の1940年12月21日、アルコール中毒からくる心臓発作で死亡しました。

10.ドロシー・パーカーがF・スコット・フィッツジェラルドの葬儀で述べた言葉

○転落
スコットの葬儀は少人数でおこなわれました。参列した詩人のドロシー・パーカーは友人の早すぎる死を悼み、「グレート・ギャツビー」中のセリフ「The poor son of a bitch(かわいそうな奴だ)」を泣きながらつぶやいていたそうです。妻のゼルダはノースカロライナ州アッシュヴィルの療養施設に入所中、1948年に起きた火事によって亡くなりました。二人の墓はメリーランド州ロックヴィルにあります。手前には「グレート・ギャツビー」の一節、「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも」が刻まれています。


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関連書籍

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (村上春樹翻訳ライブラリー)


村上春樹のF・スコット・フィッツジェラルド関連の著書には「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」がありますが、「雑文集」収録の「スコット・フィッツジェラルド - ジャズ・エイジの旗手」にはこんな言葉があります。こちらをもってこの特集をしめくくりたいと思います。


スコット・フィッツジェラルドとは、いうなれば、アメリカという国の青春期の、激しく美しい発露であった。その吐息が空中でふっと神話的に結晶したもの、それがフィッツジェラルドの作品群であり、またその人だった。彼はアメリカという国のもつもっともナイーブでロマンティックな部分を、その魂の静かな震えを、自然な生命ある言葉で鮮やかに描き出し、美しく陰影のある物語のかたちに託した。


村上春樹 雑文集 (新潮文庫)


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